Jazzの肝はアドリブです。
音楽にはいろんなジャンルがありますが、様々な音楽のジャンルの中で、Jazzはアドリブでいかに自分を表現できるか?が問われます。
今回の記事では、アドリブが素晴らしい、Jazzボーカリストをご紹介します。
サラ ・ヴォーン
サラ ・ヴォーンは、1926年にアメリカのニュージャージー州ニューアークに生まれました。
7才でピアノを始めて、その後オルガンを習い12才のときに、地元のパプティスト教会のオルガニストと聖歌隊員になりました。
子供の頃から音楽が大好きな少女だったのですね。
18才のときに、「エラ ・フィッツジェラルド」も出場した、「アポロ劇場」でのアマチュアコンテストで優勝。
そして、1週間、「アポロ劇場」での出演のチャンスをつかんだのです。
そのときに、サラ・ヴォーンの歌を聴いていた、当時の大物歌手の「ビリー エクスタイン」が、サラ・ヴォーンの才能を見抜きました。
そして、1944年に「ビリー エクスタイン」の「ビ バップ バンド」に参加。
この、「ビ バップ バンド」には、ビ バップを代表する
- チャーリー パーカー
- ディジー ガレスピー
- マイルス・デイヴィス
- ファッツ ナヴァロ
- デクスター ゴードン
- アート ・ブレイキー
など、そうそうたるメンバーが在籍していました。
サラ・ヴォーンは、「ビ バップ バンド」で、歌でのアドリブに磨きをかけました。
つまり、器楽奏者と対等に渡り合うスタイルを身につけていったのです。当時は、ちょうどスウィングからビ バップへの転換期でした。
1945年に「ビ バップ バンド」をやめると、ソロシンガーとして活動を開始しました。
クラブに出演したりレコーディングを開始。
プライベートでは、トランペット奏者の「ジョージ トレッドウェル」と結婚しました。
「ジョージ トレッドウェル」は、トランペット奏者をやめて、サラ・ヴォーンのマネージャー兼ミュージカルディレクターとして彼女の才能を開花させました。
その後、1950年代のサラ・ヴォーンは、Jazzボーカリストとして、テクニックのみならず、より高いレベルまで登りました。
しかし、その後のロックの台頭により、サラ・ヴォーンは、不遇の時代を迎えます。
約4年ほどレコーディングから遠ざかってしまいました。
そんな状況がしばらく続きましたが、1970年代後半に再び飛躍の時がきました。
ノーマン グランツの主催する「パブロレーベル」からブラジルのミュージシャンと共演したアルバムがリリースされ、サラ・ヴォーンは、新境地を開きました。
そんなことが出来たのは、サラ・ヴォーンの幅広い音楽の引き出しがあったからだと推測されます。
その後、晩年のサラ・ヴォーンは、日本にも頻繁に来日し、日本のJazz誌「スウィング ジャーナル」で、8年連続です人気投票のトップでした。
しかし、1990年に惜しくも逝去。
サラ・ヴォーンの魅力はアドリブ
サラ・ヴォーンの何よりの魅力は、器楽奏者と渡り合えるほどの技術をもつアドリブにあります。
このアドリブの技術は、
「ビ バップ バンド」で培われました。
1940年代前半といえば、まさに「ビ バップ」の勃興期。
サラ・ヴォーンがアドリブの技術を磨くにはとても恵まれた時期と環境にいる事が出来たのではないでしょうか?
サラ・ヴォーンのオススメの音源
サラ・ヴォーンのアドリブが聴けるオススメの音源を紹介します。
HOW HIGHT THE MOON
HOW HIGHT THE MOONでは、サラ・ヴォーンの素晴らしいアドリブが聴けます。
1955年に録音されたアルバム「イン ザ ランド オブ ハイファイ」に収録されている「HOW HIGHT THE MOON」は、1940年にミュージカルの「トゥー フォー ザ ショウ」
のために書かれた曲で、「モーガン ルイス」により作曲され、「ナンシー ハミルトン」により作詞されました。
この音源のミュージシャンは下記の通りです。
- サラ・ヴォーン(vo)
- キャノンボール アダレイ(as)
- ジミー ジョーンズ(p)
- ジョー ベンジャミン(b)
- ロイ ヘインズ(ds)
- アーニー ウィルキンス(arr.cond)
arr.cond=編曲.指揮
この音源の聴き所はなんと言っても、「キャノンボール アダレイ」のアルトサックスによるアドリブとサラ・ヴォーンによるアドリブの交換的な演奏と歌です!
サラ・ヴォーンは、器楽奏者と対等に渡り合える稀有のJazzボーカリストだった事が確認出来ます。
イン・ザ・ランド・オブ・ハイファイ
エラ ・フィッツジェラルド
エラ ・フィッツジェラルドは、1917年にアメリカのバージニア州に生まれました。
エラ ・フィッツジェラルドの両親がエラ ・フィッツジェラルドがまだ生後間もない頃に離婚してしまい、母親とニューヨークに移り住みます。
しかし、エラ ・フィッツジェラルドが14歳の時に母親は病死してしまいました。
孤児となってしまったエラ ・フィッツジェラルドですが、17歳の時に出場したアポロ劇場主催のアマチュアコンテストで優勝したのです。
それがきっかけで、1935年にプロデビューしました。
1938年に、チックウェッブ楽団に入団し、チック ウェッブ楽団をバックにデッカレーベから「ア ティスケット ア タスケット」をリリースして大ヒットしました。
しかし、1939年にチック ウェッブが急死してしまいました。
そこで、エラ ・フィッツジェラルドは、楽団長となります。
若きエラ ・フィッツジェラルドは、1941年に楽団が解散するまで楽団長を務め上げました、このことは、後のエラフィッツジェラルドのプロとしてのジャズシンガーの活動にとって、とても有益な時間となったことでしょう。
そして、ソロボーカリストとしてスタートした、エラフィッツジェラルドはスター歌手としての道をたどり始めました。
エラフィッツジェラルドは二度の結婚を経験しますが、結婚生活はうまくいきませんでした。
ヴァーブレーベルを創立した、ノーマングランツが主催したコンサートツアー「J.A.T.P」に参加し1953年には来日しています。
1955年にデッカレーベルを離れたあと、ノーマングランツが率いるヴァーブレーベルで大量の録音を行いました。
1950年代から1960年代にかけてエラフィッツジェラルドは作曲家シリーズも多数録音しました。
このことにより、エラフィッツジェラルドはスタンダードシンガーとしても名声を得たのです。
1970年代に入り、ノーマングランツがパブロレーベルを設立すると、エラフィッツジェラルドはそこでも重要なジャズボーカリストとなり、ノーマングランツと二人三脚で歩み続けました。
ノーマングランツはエラフィッツジェラルドにとってとても重要な存在だったのですね。
エラフィッツジェラルドは晩年病魔に苦しめられましたが、1996年、惜しくも逝去しました。
エラフィッツジェラルドが残した多数の音源は今でも私たちを楽しませてくれていますまさしく伝説の女性ボーカリストとして今でもその輝きは色褪せません。
エラフィッツジェラルド のオススメの音源
As time goes by
1970年にハンガリーの首都ブダペストで行われたライブレコーディングの音源から「as time goes
by」をご紹介します。
「As time goes by」は名画「カサブランカ」の中で使用され有名になった曲です。
元々は1931年にノーマン ハプフェルドが作詞作曲しました。
「As time goes by」は、しっとりとした曲ですが、エラフィッツジェラルドは素晴らしい歌唱力で歌い上げています、微妙に崩したメロディーがとても素晴らしいです。
この崩しこそがジャズの醍醐味なんですよね、まさしくアドリブです。
しかし、このアドリブもしっかりとした歌唱力がないと台無しになってしまうのです。
エラフィッツジェラルドは素晴らしい歌唱力でさりげなくアドリブを入れ、表現しています。
このようなことがサラリとできるのはエラフィッツジェラルドの歌唱力の賜物だったのですよね。
この音源の参加ミュージシャンは下記の通りです。
- エラフィッツジェラルド(vo)
- トミーフラナガン(p)
- フランク デラローサ(b)
- エド シグベン(ds)
エラフィッツジェラルドの魅力は温かみのある声
エラフィッツジェラルドの魅力は温かみのある声です、どんなに悲しい曲でも彼女の歌を聴いているととても癒されるんですよね。
そして何より、ライブ音源を聴いているとリスナーに対して語りかけるエラフィッツジェラルドの言葉がとても暖かいのです。
二度の結婚も失敗し、私生活には恵まれなかった、エラフィッツジェラルドでしたが、ジャズシンガーとしては素晴らしい成功を収めました。
どんな困難にもくじけず、ジャズボーカリストの道を継続して大成功した、エラフィッツジェラルドは、その後の数々のボーカリスト達にとって励みになったことでしょう。
まとめ
いかがでしたか?
今回の記事では、女性ボーカリストの中で特にアドリブで素晴らしい音源を残している伝説の女性jazzボーカリストであるサラボーンとエラフィッツジェラルドを取り上げてみました。
ぜひ、素晴らしい音源を聴いてみてくださいね。